高畠一郎先生に聞く
直撃インタビュー・シリーズ①

  東京芸術大学受験の経緯

― さて、私の場合は、高校3年になって大学進学どうしようって感じだったんです。今もそうですが全てがのんびりとしてまして(苦笑)。その時は砂崎先生に師事しながら受験勉強もしていたわけですけど、ダメもとで「芸大を受けてみたいのですが・・・」って砂崎先生に相談したら、先生はとんでもないっていうような、とっても驚いたお顔をされて、一言「無理です」って()。「もし受けるのなら浪人は覚悟のうえで」とも言われました。だって、歌もぜんぜん勉強してなかったし。両親とも芸大受験には反対で、浪人は許さない、って言われました。親は小学校の教員だったということもあって、学芸大学の音楽教育科を受けるということを条件にして芸大を受けさせてもらったんです。ピアノは6歳からずっと通っていたので、学芸大学受験の時には周りはもっと楽な曲を選んでいる中、ベートーベンかなんかをババーンって弾いたりしました。結局、お陰様で芸大に合格しましたので、今となっては良い経験だったと思います。

  芸大現役合格の秘話

― ですので本格的にお箏を勉強したのは1年もなかったことになります。普通は中学くらいから目の色を変えて受験体制に入るんですが、砂崎先生も相当慌てたと思います。だって、歌える曲は「御代の祝」とか数えるくらいしかなくて。確か、第一次試験が「みだれ」で二次試験が「さむしろ」じゃなかったかな。その程度で受験することができた時代でした。既に芸大を出られた同門の先輩に三絃を手ほどきして頂いたり、砂崎先生のレッスンと同時進行でお稽古に通いました。

― 当時芸大の箏曲教授は上木康江先生で、その当時すでにお具合が悪く、私らの学年が先生の最後の入学生となりました。入学して、先生は5月で入院、翌年に他界されました。その上木先生の在籍中で、沢井忠夫以来の男性の現役合格とも言われたりしました。というのは、当時は愛の鞭というのか、男性は現役では合格させないで、つまりもう少し鍛えてから入って来い、という風潮があったようです。その時代はとにかく何かしら芽のある子をひとまず入れておくんです。それで、実際はとりあえず受かった、といっても本当の合格ではなくて、前期の実技試験が7月頭ぐらいにあるのですが、入学から3ヶ月間でどのくらい成長したかを見られるんです。この期間を確か仮入学とか呼んでいたと思いますが、そういう体制がありました。もっともそこで退学になることはほとんどないんですが。それだけ3ヶ月で皆しっかり成長させてもらえる良い環境でした。

Q それにしてもよくぞ通してくださったと思いますね。

― そうですね。上木先生のお目こぼしで通して頂いたお陰で今があるわけで、今となっては本当に感謝しています。もし落ちていたら・・・今頃はどこかの学校で音楽の先生をしていたのかも知れません。

 ☆ 楽器選び

― 大学に入ると良い楽器が必要になりますので、合格後すぐに砂崎先生に頼んで選んで頂きました。まずはお箏と三絃をお願いしたのですが、予算としていた2倍以上の額の楽器が届きました。まさに想定外。でも、砂崎先生としては後々のことを考えてのことで、絶対に役立つと思って選んで下さいました。随分高いなぁ〜と思ったものです。でもあの時にあの楽器を選んでもらってなかったら・・・箏だけでなく三味線もよく頑張ってるねって言われるようにはなってないと思います。だって何年使ったってへこたれないし!大学に入ってから1年くらいで十七絃もバチも象牙柱もそろえたので、両親もさぞ大変だったと思います。いずれの楽器も気に入っており、今でも大切に使っています。ただ良い楽器に出会うだけでなく、その楽器を良い状態に保ち育てていくのもまた大変な事、後々の事を考えての楽器選びはとても大変な事だと思います。

Q 砂崎先生の眼が確かだったんですね。

― そう、多分先生は本能でわかるみたいです(笑)。それから今までの間、先生のそばにいて、そんな本能を最近少しは私も習得した感もありますが・・・とにもかくにも演奏家には楽器は命とも言えるものですから、演奏も楽器選びもより精進していきたいと思っています。

 

 ☆ 大学院で学ぶこと

― 大学院は浪人しました。10月が入学試験だったんですが、8月になっても練習に熱が入らず、上木先生の後に教授になられた矢崎明子先生は「高畠さん、もうちょっと練習しないとね。」ってず〜っとおっしゃっていました(笑)。絶対受からないだろうなぁって思いながら受験した記憶があります。

 Q 芸大の場合、大学院に行くのと行かないのではどう違いますか?

― そうですね、大学院に行く意味は、楽曲、楽器等の研究をして論文を書くことと、あと大切なのは学部生の助演をすること。つまり、研究と演奏体験の場としての意味があります。助演って、そんなに楽なものではなくて、ひとつひとつが真剣勝負。少なくとも大学院に在籍する2年の間に、助演だけで延べ16曲は真剣に弾くわけです。内容もそこまで熱心にというか堅苦しくというか細かくというかしつこくというか・・・とにかく練習回数もハンパではないですし。外に出ればなかなかそんな機会はないと思いますよ。だってもし失敗したら、助演したその人が試験に落っこっちゃうから。大学院はそういう意味で、行ったほうが確実に曲も自分のものになると思いました。今だから言えますが私の場合、それまで「五段砧」すら弾いたことがなかったんですよ!それだけ曲の貯蓄が無かった訳です。芸大の場合は、いわゆる専門学校というか、プロを育てるという気合がありました。学校を出てすぐに通用するプロ。それだけ、教える方も受ける方も真剣さが違っていました。

 Q その他にどんな経験されましたか?

― 大学院浪人の間、宮城会のコンクールに出ました。初めてでしたが一位を頂き、他にも浪人していたその1年にものすごくといろいろな経験ができました。なんといっても暇でしたから(笑)。砂崎先生に連れられて各地を廻ったりもしました。その頃に広島にも来たと思います。

Q 芸大期間中は師匠の砂崎先生とはどういう関係になるんでしょうか?

― 在学中の4年間は親師匠のところに行ってはいけないことになっています。基本的に大学に親師匠が自分の弟子を預ける、という形です。私も4年間は先生の所へはお稽古に行きませんでしたが、3年生と4年生の時には砂崎先生が大学に教えに来られていて、毎週1回は宮城曲で手の早いものとか、現代曲を習いました。だから、遠くなった感じはなかったです。1、2年生のときはみっちり古典を仕込まれるから、みんな3年生になったら結構楽しそうでした。

Interview top Next
助 走
Approach